【田野浦提灯山】江戸時代より続く伝統的祭り(北九州市門司区)

田野浦提灯山の概要

北九州市門司区田野浦地区に伝わるお祭り『田野浦提灯山』。

200年以上の歴史を誇る伝統的な祭りで、時代と共に形を変えつつも、地元有志の方々のご努力で今に続く、田野浦っ子自慢の祭りです。

その名の通り、「提灯」を纏った2台の山、そして太鼓が『田野浦提灯山』を構成しています。

子どもたちが提灯山を曳き、大人がサポートする。

そして提灯山に帯同する太鼓も子どもたちが叩いています。

田野浦提灯山の起源

『田野浦提灯山』の歴史は江戸時代後期に遡ります。

当時の田野浦地区は、北前船の西廻り航路(日本海〜関門海峡〜大坂:当時の地名)の寄港地として、多くの船が昼夜を問わず入港し、大いに栄えていたそうです。

廻船問屋、船宿、遊女小屋、芝居小屋などが軒を連ねていたそうで、今からはなかなか想像ができない感じです。

夜間に船が入校する際に、船宿への合図として使われたのが「提灯」。

船から振りかざされていた「提灯」が水面に映り、素晴らしい光景だったそうです。その光景にちなみ作られたと伝えられているのが『田野浦提灯山』です。

春日神社の祭礼として奉納

田野浦2丁目(旧:北の町)にある春日神社の境内に祀られている祇園社(通称:ぎおん様)の祭礼が8月に行われており、その祭礼の大きな出し物として提灯山が奉納されたといわれているそうです。

当時は北の町、中の町、南の町から一台ずつ、計3台の提灯山が出されていたそうです。その高さは約8 m程あったということですので、同じく北九州市戸畑区にある戸畑祇園大山笠の提灯山10mには及ばないものの、かなりの高さだったことが伺えます。

しかし大正時代に入り、田野浦にも電灯が灯り、電柱が立ち、電線が張り巡らされてこともあり、提灯山もいつしか消え去ったそうです。

『田野浦提灯山』の復活

日本三大みなと祭の一つに数えられる「門司みなと祭」。

「門司みなと祭」の始まりは昭和9年。当時の門司商工会議所会頭であった出光佐三氏の音頭により始まったそうです。出光佐三氏と言えば、出光興産の創業者で「海賊とよばれた男」としても有名ですね。

「門司みなと祭」への参加要請により、地元の市議会議員で田野浦自治会長であった小川重一氏が中心となり、地元有志が提灯山笠3台を作成し、昭和35年5月の「門司みなと祭」に出演し、『田野浦提灯山笠』が復活しました。

ただし、高さは以前の8mの半分である4mとなりました。

それ以来、ほぼ毎年「門司みなと祭」に出演しています。(1年のみ不参加)。その後は、少子高齢化の影響もあり、山笠は3台から2台となっています。

回転する「提灯山」

『田野浦提灯山』の特徴の一つが、山笠の上部が回転することです。

回転する際には、約60cm程高くし、手動で回転させます。

提灯の中は火の着いた「ろうそく」。回していると、燃えることも多く、よく目にします。

太鼓の技法

日本のお祭りに欠かせない「太鼓」。『田野浦提灯山』も「提灯山」と共に「太鼓」が主役と言えます。

そして『田野浦提灯山』の太鼓を聞くと、北九州の人ならあら!?と思うはずです。

同じく北九州市小倉北区の小倉祇園太鼓の太鼓にそっくりなんです。掛け声も「ヤッサ、ヤレヤレヤレ」と同じ。大きな違いは「小倉祇園太鼓」にある「ジャンガラ(合わせ鉦)」が無いこと。太鼓と掛け声だけの演奏です。

というのも、『田野浦提灯山太鼓』と「小倉祇園太鼓」の大元の流れは同じようで、途中で別れて『田野浦提灯山太鼓』は「小野流」、「小倉祇園太鼓」は「佐々木流」だそうです。

共に両面打ちの太鼓で、音の高さが両面で違っています。「小倉祇園太鼓」では「カン」「ドロ」と呼ばれていますが、「小野流田野浦提灯山太鼓」の場合は「オモテ」「ウラ」と呼ばれています。

地元の子どもたちは小学生になると太鼓の練習を始め、まずは「ウラ」打ちのリズムを5年位で習得し、それから「オモテ」の習得に2年程かけるそうです。

『田野浦提灯山』と「大里電照山笠」

同じく北九州市門司区には『田野浦提灯山』の他に「大里電照山笠」というお祭りがあります。

わっしょい百万夏まつりでの「大里電照山笠」

共に四角い台座の上に山型(ピラミッド型)の上部が回転するという点で大変似ています。大きな違いは『田野浦提灯山』は「ろうそく」を使用しているのに対し、「大里電照山笠」はその名の通り電灯を使っているところです。

実は、「大里電照山笠」のモデルになったのが『田野浦提灯山』なんです。

元々「大里電照山笠」と共に披露される「大里太鼓」は1千年以上の歴史があると言われています。その太鼓とともに「大里電照山笠」の運行が始まったのが昭和61年。

その前の昭和58年、59年に、大里地区の要請により、町内を運行したのが『田野浦提灯山』。それをモデルに制作されたのが「大里電照山笠」ということになります。

実際に以前の「大里電照山笠」の提灯のデザインは『田野浦提灯山』と同じですね。

以前の大里電照山笠の姿(北九州市HPより)

このようにして、祭りが伝播したり、融合して少しずつ形が変わっていくんですね。大変興味深いです。

地元での披露

『田野浦提灯山』は毎年5月下旬の土日に開催される「門司みなと祭」の初日、土曜日に夜に参加していますが、その前日には地元田野浦地区で開催される「田野浦ふるさと祭」で披露されています。

「田野浦ふるさと祭」は『田野浦提灯山』の他に、門司港生まれの「バナナの叩き売り」等の他、様々な出し物や、バザー、出店などが「田野浦市民センター」で行われています。

『田野浦提灯山』は18時半の出陣式のあと、約1時間程の町内への運行、市民センターに戻ってきての太鼓の披露が行われています。

町内を2台の山が運行し(途中で別のルートに別れ、最後に合流します)、市民センターに帰ってから提灯を付ける予定でしたが、暗くなったことなどもあり、1台は途中で提灯に火を灯しました。

提灯の明かりが灯ると、とっても綺麗です。

市民センターに帰って、『田野浦提灯山』の歴史の披露、そして盆踊りが2曲ほど踊られました。

そして、最後は『田野浦提灯山太鼓』の披露です。

山笠に帯同した太鼓は子どもたちが打ち、真ん中に据えた太鼓は大人が叩いていました。

「門司みなと祭」への出演

「門司みなと祭」の初日、19時半ころ栄町銀天街の西側(JR門司港駅側)から東側まで運行し、栄町銀天街東側に作られた栄町お祭り広場で太鼓の披露などを行ないます。

栄町銀天街の西側の入口に『田野浦提灯山』が入ってきました。

銀天街に太鼓の音が響き渡ります。

そして栄町お祭り広場での太鼓の披露です。

そして、2018年の「門司みなと祭」では20年ぶりに「大里電照山笠」が参加とあって、『田野浦提灯山』と「大里電照山笠」の競演が実現です。

4台の山笠に感無量です。

北九州市には様々な特徴を持つお祭りが現存しています。ここ『田野浦提灯山』もその一つとして、地元の方々により脈々と今に伝えられている、貴重なお祭りです。いつまでもこの伝統が続くことを強く願っています。ぜひ皆様も「門司みなと祭」や「田野浦ふるさと祭」で『田野浦提灯山』をご覧頂けることを、心より願っております。

なお、この記事を書くにあたり、田野浦提灯山保存会の田村和三会長へのインタビューの他、会長のまとまられた資料などを参考にさせて頂きました。この場をお借りして、感謝の意を表します。誠にありがとうございました。

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KA-TSU

旅行会社に勤務することで旅好きとなり、旅人になるために独立。ガイドブックでは分からない、体験に基づく旅情報を発信しています。 また、SNS等を活用したwebマーケティングや、ビジネスプロデュースなどの依頼にも、極力お応えするようにしています。 私のSNSもぜひご覧ください。