『厚母大仏』との素晴らしき出会い
素晴らしい体験だった。こんなに力を感じたことはない。ただただ、ひたすらに感動である。
友人に誘われ、ミステリーツアーに出かけた。目指すは山口県下関市の山陰方面。ぜひ私に見せたいものがあると。
この大切なお友達は、事ある毎に、素晴らしき出会いを与えてくれる。今回も、期待に胸を膨らませつつ、山陰の海岸線をひた走る。
果たして、その先にあるものは。
片田舎にある静かなお寺『安養寺』
ついたところは、国道191号線から少し入った、周りは田んぼや畑の中、ひっそりと建つ静かなお寺。
なお、国道沿いに、『厚母大仏』の看板があるので、これを目印に。
しかしよく手入れされて、素晴らしい気に満ち溢れた、素敵な場所である。
お寺の入口には、『厚母大仏』と看板が立つ。
自由に参拝できる『厚母大仏』
お寺の正面に回ると、ご自由に参拝下さいの文字。遠慮無く上がらせて頂く。
そして本堂の先に微かに見えた大仏様。
遠くからでもわかるその大きさ。またひと気の少ないこの場所に、こんな大きな大仏様とは、かなりの衝撃です。
誘われるままに、大仏様の前まで。
ガラス越しに眺める、そのありがたきお姿。感動である。
高さ約3メートルの、大変ご立派は大仏様。
しばし眺めていると、住職さんらしい方が、ひょっこり表れた。
そして大仏様について、色々と教えて下さった。
1200年以上前に建立されたこと。坂上田村麻呂が祈願したこと。昭和4年に国宝に指定されたこと。格が一番上の大仏様であること…
ありがたきお話に、メモを取りながら聞き入っていると
「中に入ってみなさい」
「鍵あげるから」と・・・
ナント、そのガラス張りの中で、間近で見て良いとのお許し!これまた感激である。
あとから聞いた話だが、だれでもは開けてくれないらしい。気に入った人だけが入れるとか?気に入って頂けてこれまた感激。
凄い力を感じる『厚母大仏』
鍵を頂き、住職が見守るわけでもなく、友人と2人で、自由に参拝させて頂けた。
そして鍵を開け、大仏様のお部屋に入った瞬間、今までに感じたことのないような、凄い感覚を味わった。全身に強い刺激、内側からみなぎるような感情、なんとも言えない感覚に、しばらく声を上げ続けた。
少し落ち着かせて、改めて大仏様を、じっくり拝ませて頂く。
感激以外に言葉がない。
大仏様の脇には、お釈迦様。
そして、子安地蔵様。
最初に味わった感覚は、まだまだずっと続いている。なんという力なんだろうと、感激で胸がいっぱいだった。
名残惜しいが、感激を胸に、そして力を全身に蓄え、部屋を後にする。ただただ、感激である。
ご住職との素晴らしき時間
大仏様のお部屋を出ると、お利口さんのワンちゃん、「だいくん」が待っていた。
ここに来てから、ずっと側にいた、人懐っこい「だいくん」。
しかし決して、本堂から出て、大仏様の前には行かない。本堂で待っていてくれた。そこに先程のご住職。
「お茶を飲んでいきなさい」
と、これまたありがたきお言葉。
そのまま小一時間だろうか、色々とお話を伺うことが出来た。
あえて馬鹿話をしながら、くだけた雰囲気を作って下さり、その合間合間に、心に残る言葉を下さる。
ご住職との時間は、大仏様との出会い同様、何事にも代えがたい時間だった。
ご住職の部屋から出ると、ありがたいお話に通じる言葉が。
一度は訪れて欲しい『厚母大仏』
今回初めて伺い、感動、感激の連続だった。
ぜひお一人でも多くの方に、この感覚を味わって頂きたい。そう心より願う次第です。
なお厚母大仏について、詳しいページがあったので、引用させていただくと共に、リンクさせて頂きます。
厚母大仏
この大仏は昭和4年(1929)に国宝に指定され、同10年(1935)には修理が行われた。昭和25年(1950)の文化財保護法の施工により、重要文化財に指定される。
総高一丈二尺五寸、像高八尺八寸八分(269.1cm)のいわゆる丈六仏で、我が国六大仏の一つとされ、近郷では「厚母の大仏」「安養寺の黒仏」と称され、親しまれている。
内刳りを施した楠材の寄木造りで、現在は古色塗りを施す上品下生(じょうぼんげしょう)の印を結ぶ通形の阿弥陀如来坐像である。坐像の特徴の一つに、膝張りと膝高との関係がある。古い像ほど膝が高く、膝高を一とすれば膝張りは五の割合であるが、時代が下がると膝高が低くなっていきます。
本像の膝張りと膝高の割合は、膝張りに対して膝が低くなっている。これは下から仰ぐ大仏の頭と膝との釣り合いが崩れてしまい、頭がより小さく映ることを防ぐ工夫とされている。また、藤原末期の造像で、破損は少なく当代有数の様式を備えた技巧は素晴らしい。一丈に近い巨像にまとめあげ、相好堂々とした大作としてこの地方を雄視している。
この大仏は、桓武天皇の延暦年間(750~810年)、坂上田村麿が鎮守府将軍に任ぜられた時、国家鎮護のため名匠・春日に仏像を彫らせ、要衝の地に大刹を選び安置されたものとの伝承もあるが、様式からは平安時代後期~鎌倉時代前期の作と考えられている。仏胎内背部には「田村麿祈念仏」と銘記されている。
長府・国分寺の奥ノ院・安養寺の本尊であった大仏は、安養寺が廃絶されたため、また蒙古襲来に際して、長門国守護職に任ぜられた佐々木四郎高綱が、敵国降伏の祈願仏とする為、吉母の東向坊(安養寺の末寺)に遷した。その後東向坊も廃絶して一時露座仏となっていたが、ここ厚母の安養寺に安置された。
安養寺
安養寺は、聖武天皇の天平13年(741)頃、国毎に金光明四天王護国寺及び法華滅罪寺が建立され、長門の国府・長府にも国分寺が建立された。
この国分寺境内には、四十九院の寺々があった。『国分寺古跡由来書』によると、その中に、安養寺及び極楽寺を以って、長門国中の諸末寺に沙汰をしたとある。また、『豊府志略』の国分寺の条に、境内西方の安養寺を以って奥ノ院とする、とあるから安養寺は国分寺の奥ノ院であったと思われる。
残念ながら長府・安養寺は廃絶してしまったが、その後、江戸時代の享保年間(1716~1736)に、長府功山寺の12世実門を中興の祖として、安養寺の寺号をここ厚母の地に遷し、功山寺の末寺として小刹が再建された。
長府の地には現在も、「安養寺」の地名が残っている。
安養寺・大仏殿
大仏殿は、文化庁、山口県、下関市の補助事業として新築・竣工した。この建物は、この地域に残る土塀や土壁のある風景と、一体となるように設計された。そのため外壁には、地元の土を固めた約1500個もの版築ブロックを積み上げるという、日本初の工法を採用した。
その外観は、あたかもこの地域に多くある土壁の蔵を彷彿とさせる、鉄筋コンクリート、一部鉄骨造り平屋建ての建物である。
竣工は平成14年(2002)10月30日、大仏遷座は平成15年11月14日
安養寺 厚母大仏 基本情報
住所:山口県下関市豊浦町厚母郷541
KA-TSU
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